ヨシキ☆

足の速さが特徴だったのか。
知らなかった笑

うちらしく☆



日本サッカーはギリギリの勝負になぜ弱いのか

 Jリーグ発足から25年、日本のサッカーはどれくらい成長しただろう。明確な回答はあるのだろうか。何年経っても世界で際立った結果は残せていない。どのカテゴリーにおいても、大切な試合や重要な局面では必ずと言っていいほど「ギリギリ」のところで敗北を喫してきた。「世界を経験する」こと、「世界に行かなければ」わからないこと、「世界基準を知る」ことは、日本のサッカー関係者が世界と戦うために最も重要なことだと考え率先して行ってきた活動である。しかし「このワンプレーに泣いた」「内容は悪くなかったが…」「一瞬のところでやられてしまった」「あと一歩のところだった」「育成の方向は間違ってない」等々、もう何十年同じ報告を耳にしてきただろうか。「育成」や「強化」というものは「向上する」「無いものを得る」「獲得する」「勝利する」それ以外に意味や目的はないと私は思う。そして今の日本人選手に絶対的に求められる要素で、確実に獲得しなければならないのは「技術」や「戦術」「海外経験」ではないような気がする。確かにそれらのスキルや経験値はとても重要で必要なことでもあるが、「ギリギリの勝負に弱い」という長年の課題には全く向き合っていない。「無いもの」に対し、危機感や犠牲心を持って積極的に「獲得」しようとする行動や姿勢があるとは到底見えない。なぜなら日本サッカーに「無いもの」とは、日々の生活において24時間365日の積み上げから身につけていかなければならない要素だからである。周囲の大人や指導者が「教育」や「習慣」の中で時間をかけて確実に要求していかなければならないものだと思っている。「責任行動」を追求し、「ハングリー精神」を求め続け、「嫌なこと」や「苦痛」から逃げさせない。「我慢」や「辛抱」から獲得できるものを教え、「一瞬で失うもの」の代償を叩き込む。指導する側とされる側、お互いに大きなストレスがかかりトラブルが生じることも容易に想像できるし、現在の日本社会の流れから考えると少し掛け離れることになるかもしれない。しかし、これが『人材育成』であり『人間教育』である。トラブルやストレス無くして『強い人材育成』は無いと思っている。人は皆、誰からも嫌われたくないし、好かれたいものだから、自分の意思をコントロールしてまで平常心を装うし、厳しい言動を避けてきた。「無いもの」を会得させるということは、「無意味な平和感」に慣れさせないことで、日頃からどんなことでも「会得できる精神状態」を作っておくこと、「小さな勝負」に拘り続ける日常が必要であり、大切なのだということである。
 日本サッカーがギリギリのところで勝てないのは、「無いもの」を「求めない」「求めさせない」という、競争原理からかけ離れた「思考」と「行動」によって構築された勝負勘が「致命的」な形となって日本サッカー界全体に浸透しているからではないだろうか。
 我々が日々求め続け試行してきたサッカーは、まさにその部分の「教育」と「育成」であり、サッカーをやるのに不利な環境であっても、全国で結果を出し続ける「強い人づくり」をベースに積み上げてきた成果が、今の結果を生み出しているのだと確信できる。サッカーをやる前に一人の「強い人間」であり「賢い勝負師」であること。そして青森の地で「全国基準」を求め続けた結果であり、これは「世界基準」と類似したベースのあり方だと私は思う。

青森山田高校サッカー部
監督 黒 田  剛


子供の行動は「家庭」が育む

 近年、人間関係のトラブルに悩み苦しむ子供が急増している。その中でも「いじめ」は代表的な例である。昔と比べ「いじめ」は増えたのか、減ったのか。何年経ってもこの問題は決して無くなることはないようだ。更には、親や先生、周囲が防ぐことのできない最悪な事件に発展しているのを報道でよく目にする。その背景にはどんな事実が隠されているのだろうか。私の教員と指導者の経験から「いじめっ子」と「いじめられっ子」の関係に、比較的よく見られる「性格」と「行動」のパターンが思い浮かぶ。
•「いじめっ子」は、自分の加害状況を「軽く」認識するが、「いじめられっ子」は、自分の被害状況を「重く」受け止める。
•「いじめっ子の親」は、我が子に対して比較的「軽く注意」するに留まるが、「いじめられっ子」の親は、敏感に反応し「親が子に代わり解決」するよう必死に動くことが多い。
•「いじめっ子の親」は、一般に我が子が「良い子」であると信じているし、親の目に触れない裏の行動や言動を知らないか、また認めもしない。「いじめられっ子の親」は、我が子が、抵抗力が弱いことを認識しているため、「いじめっ子」や「先生」「指導者」を「攻撃」する傾向や準備がある。
•「いじめっ子」は、「善悪の認識」と「責任意識」が薄く、「自由」と「いいかげん」を履き違えて育っている場合が多い。「いじめられっ子」は、自分の「判断」や「行動」が積極的に評価されず、親まかせの「判断」と「行動」によって受動的に動かされている例が多い。親の感情が先に立ち、子供の「感情」が後にされる家庭教育で育っていることも多い。
•「いじめっ子」・「いじめられっ子」に共通して言えるのは、自分をかばう行為としての「嘘」が多い。
•「いじめっ子」も「いじめられっ子」も、原因の多くが家庭環境における「寂しさ」にあることが多い。子供のためと「お金を渡す」「代弁する」「教育、躾という名の押し付け」など、いわゆる親の「負担軽減」が優先されているケースも多い。

 まだまだ多くの事例やパターンがある。これが全部でも、絶対でもないが、「いじめ問題」の背景を考察してみると、多くの共通点があることに気付く。根っこは、「家庭環境」と「家庭教育」にあると言えるのかもしれない。
 先日、中学生を引率した際、興味ある光景を目にした。それはホテルでの朝食時、何も口にしない生徒に対し、先生が「どうして食べないの?」と尋ねたら、「何も食べるものがありません!」という答えが返ってきた。母親が作る家庭での食事には、どうやら自分の好物しか出てこないようだ。中学生になったその子が、これまでの12年間をどのように送ってきたのかを想像すると、正直気が狂いそうになる。「好き嫌い」の多い子の生活背景には、苦手なものにチャレンジさせてこなかった親がいる。人参やピーマン、椎茸やカボチャ、子供が苦手としたものは、その原型を感じさせないほど調理を施し、上手く誤魔化し食べさせる。母親は栄養素だけは摂取させる努力をする。「原型を克服した」という感覚を持たない子供と、食べさせた努力(一方的なチャレンジ)に満足する母親、これでは共に成長する余地はない。要するに私に言わせれば、子供に「チャレンジさせない親」と、子供のためにならない「チャレンジをする親」が存在するということだ。ならば、いったい子供の「チャレンジ精神」はどこで培われるのだろうか。
 「いじめ」の問題も「好き嫌い」の問題も、その根底は案外似ているのかもしれない。「家庭教育」の中で、しっかり養われなくてはならないのは、「判断と行動の評価」「強い意思表示」「チャレンジ精神」そして「愛する心」と「疑う心」ではないだろうか。

青森山田高校サッカー部
監督 黒 田  剛




ドイツ☆

ドイツに旅立ったアユム
頑張っているようです☆

vs VFB Marburg U16

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